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営業―1

「ストップ……ダメだよ、擦っちゃうよ」
作業着姿の男は目の前で左折しようとする車に停まれと手で合図し、黒いパンツスーツ姿で車から降りた女は、
「狭い道の左折は苦手なの。もっと広い道がこの先にありますか??」
「ないこともないけど、好い女は直ぐに諦めちゃダメだよ」
「好い女って言った??セクハラだよ。褒めてもらったってことだから問題視しないけど」
「ゴメン……誘導するよ。ハンドルを切るのが早すぎるから私の合図に従って焦らないようにね」
「分かりました。お願いします」
屈託なく黒髪を掻き揚げた女は車に戻り、窓を開けてドキッとするほど魅力的な笑顔で男を見つめる。
車の前に移動した男は、
「ゆっくり、焦らず前に…いいよ、もう少し、ハンドルを切らずにもう少し……ストップ。いいよ、ハンドルを切って」
「いいのね……うわぁ~、擦らずに左折できた。ありがとうございます」
「この先も気をつけて……名残惜しいけど、バイバイ」

好い女だったけど、この格好じゃしょうがねぇなと独り言ちた男は軽トラを離れ、手の中の小銭でチャラチャラ音を立てながら自動販売機に向かう。
「よかった、まだいた。ハァハァッ……名残惜しいって聞こえたので戻ってきたの。私にコーヒーを奢ってくれる??」
作業着姿の男が振り返るとフィアット500で去ったはずの女が息を弾ませて左折に苦労した角に立っている。
「車はどうしたの??」
「この先の公園の脇に停めてきた。あそこなら邪魔にならないでしょう??」
「この自動販売機カフェの専用駐車場だから大丈夫だよ……コーヒーは幾つかあるけど、どれがいい??」
「ブラックコーヒーをお願いします」

女は開栓した缶コーヒーを手にして男が持つ缶紅茶に軽く当て、
「乾杯……いただきます……美味しい」
恥じらいを感じさせる上品な笑みを浮かべて男を見つめ、男は言葉を発することなく満面の笑みで応える。
「先ほどは、ありがとうございました」
「擦りそうだったから思わず声をかけちゃった。余計なことでなければいいんだけど」
「狭い道への左折が苦手だと言ったのは本当です。しかもコンクリート塀だし助かりました」
ゴクッ……お礼の言葉とそれに対する返礼を終わると新たな話題の切っ掛けもなくした二人は飲み物を口にし、顔を見合わせることもなく視線を泳がせる。

「失礼なことを聞いてもいいですか??」
「失礼なことなら聞くなよって言いたいけど、好い女に反論する勇気はないからいいよ」
「セクハラだって言ったでしょう、ウフフッ……その恰好、お仕事を聞いてもよろしいですか??」
「農業だよ。この先に畑があるんだけど作業を終えて帰るところ」
「農業ですか、ふ~ん……長いのですか??」
「いや、私は1年半ほど」
「そうですか。ご両親の後を継いだとか…ですか??」
「いや、長年の夢を実現するために農地を買って始めた」
「楽しそうですね……私はホステスをしています。飲みに行くことはありますか??」
「嫌いじゃないよ。1年半ほど前に実家に帰って農業を始めたけど、その前は関東にいて、よく飲みに行っていたよ」
「今はあまり行かないようですね……神戸の店で少し遠いけど今度来てくれませんか??缶コーヒーも含めて改めてお礼を言いたいので……」
「神戸か、遠いな……」
「ムリですか……」
「クククッ、行くよ。あなたのような人に電話やメールじゃなく目の前で生営業されて断る勇気を持ち合わせていないよ」
「ウフフッ、約束ですよ。名刺よりも電話番号かLINEがいいですよね??名刺だと無視されるかもしれないし、ウフフッ……」
屈託なく笑みを浮かべる女の表情は見ているだけで気持ちが浮き立ち、心が弾む男は快く応える。
「電話でいいかな??LINEはやっていないから」
スマホを取り出した男は女が告げる番号に掛け、着信を確かめた女は満面の笑みで、お名前を聞いてもいいですかと言う。
「柏木。一つ聞いてもいいかな??」
「どうぞ」
「お店の種類は??」
「クラブで少し高めの店です……いいですか??」
「せっかくのお誘いだから精一杯おしゃれしていくよ。店に合わせないと楽しめないだろうからね」
「ウフフッ、作業着がお似合いですけど、どんな格好でお見えになるのか楽しみにしています。来てくれないと電話しますよ……」
「必ず行くよ、約束する。好い女との約束を反故にするほど自信家じゃないしな」
「またぁ……好い女って受け取り方次第でセクハラですよ。クククッ、褒めてもらっているようだから許します」
「あなたの笑顔はいいなぁ。その笑顔を見たいから会いに行くよ。名前を聞いてもいいかなぁ」
「あおいです。梅雨の頃に咲く花の葵です。店は三宮の東門街にあります」
「葵さん、ア行でまとめたね。売れっ子の人気者なんだろうな」
「源氏名のジンクスをご存じとは相当遊んでいますね」
「年を食っているからだよ。遊び慣れているわけじゃない……おっ、こんな時刻になった。早く帰らないと怒られちゃう、今日はこれで失礼するよ」
「奥様を愛しているのですね」
「妻は一番大切な人だよ。両親や息子よりもね」
「安くはないお店なので若いお客様よりもある程度お年を召した方が多いのですが、奥様を愛していると仰る人のほうが魅力的なことが多いです。柏木様が奥様を一番大切な人と仰ったので信用できます」
「ありがとう。店で会う日が楽しみだ。近いうちに行くけど電話で店の名前や場所を聞くことにするよ」
「お待ちしています。今日はありがとうございました。今までで一番おいしい缶コーヒーでした」


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ちっち

Author:ちっち
オサシンのワンコは可愛い娘です

アッチイのは嫌
さむいのも嫌
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夜は同じベッドで一緒に眠る娘です

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