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追憶

想い出そうとしても蘇ることのない記憶もあれば、忘れようとしても未練が残り捨てきれない想い出もある。
酒が悲しい想い出を忘れさせてくれると信じて飲んでみても、酔いから醒めると苦い思いが一層鮮明になり二度と酒は飲むまいと思う。
昼間は仕事に追われ仲間や友人と過ごす事で忘れたい記憶が姿を現すことはない。
夜の帳が下りて人工的な明るさが人々を照らし始めると陰が出来る。
明るさは人々の幸せの証、陰は思いだしたくない記憶の象徴。
夜になると人間の本性が露わになる。

「いらっしゃいませ。お久しぶりでございます」
「こんにちは。想い出に誘われてやってきました」
バーテンダーは懐かしい女性に挨拶をして、以前、好んで座っていたカウンター席に視線を移す。
女性の座るはずのカウンターチェアの隣には、あの頃と同じ男が物憂げな表情でグラスを揺すりカラカラと音を立てる氷を見つめている。

「お隣に座ってもよろしいですか??」
女は明らかに緊張を感じられる声をかける。
「えっ……あぁ、えっ??……どうぞ」
急に声を掛けられて振り向いた男は見覚えのある女の姿を確かめて、えっ、と驚きの表情になり、少し間をおいて立ち上がると同時にチェアを引き、どうぞと声をかける。
「ありがとう。失礼します」

カランカランッ……ジントニックを飲み干した男はバーテンダーに向けて音を立て、
「マスター、ギムレットをください」
「承知いたしました。お客さまも何かお作りしますか??」
「お願いします……シュワシュワで赤いカクテル、なんだったっけ??」
「キールロワイヤル。シャンパンを使うのは失礼だから辛口のスパークリングワインでお願いします……それで好いですよね??」
「いつもあなたがオーダーしてくれたから名前を憶えてなかったの。シャンパンに失礼って懐かしい表現……」
「君は、シャンパンに失礼って言い方はシャンパン以外のスパークリングワインに失礼だって言ったよね」
「そんなことも覚えてくれているんだ……ごめんなさい。話は変わるけど、あの日の私はどうかしていた。何も言わずに別れてくれって、我がままだし理不尽な言い方だよね」
「君の人生は君のモノでオレのモノじゃない。オレと一緒に居られないと思ったんだろうから誰も責めることはできないし、君は間違っちゃいないよ」
「腹水盆に返らずか、謝らせてもらえなくてもしょうがないね。もう少し、ここにいても好いですか??」
「好いけど……今はどうしているか聞いてもいいかな??」
「あなたの部屋を出てからは……その日は……」

言いにくそうに言葉を濁す女を見ようともせずに男は言葉を絞り出す。
「……そうか、君は好い女だからな。付き合っている男がいても不思議じゃないな……マスター、チェックお願いします。この人の分も一緒に、キールロワイヤルの後のスプモーニも加えといてよ」
「いいのか??最後まで飲んでけよ、ギムレットが悲しむぞ」
バーテンダーのぞんざいな言葉はカウンターに座る二人の過去を知り、それなりに親しい事を示している。
「そうだな。マスターの言う通りだ」
立ち上がりかけた男はカウンターチェアに座り直し、カクテルグラスを手に取ってギムレットに口をつける。
「あなたの部屋を出た日は友達の部屋で一泊して翌日からマンスリーマンションで1か月暮らした。契約切れの今日は帰る部屋もなく、楽しい想い出のあるこのバーに足が向いたの」

「私の作るカクテルを飲みたくなりましたか??それとも、目当ての人が来店しているとでも思いましたか??」
「マスターが作ってくれるカクテルも飲みたかったけど……ごめんなさい、涙が出ちゃう」
「いいのか、このままで??忘れられないから毎日のように来ていたんだろう??その席で誰かを待っていたんじゃないのか??」
マスターは男を見つめて叱咤する。
「そうだな、追憶の中のこの人を忍ぶにはこの席が一番いい。オレの部屋は辛すぎる。ここは好いよ、マスターの作る美味い酒が悲しい想い出を麻痺させてくれるから好い想い出しか残らない」

「どうですか、あなたが彼にお別れを言った理由は知らないけど今は悔やんでいるんでしょう??だから今日、ここへ来た。彼に会うためにね、違っていたら、長年、カクテルの飲み過ぎで私の頭は酔っぱらったままなのでしょう」
「はい、マスターの言う通りです。スマホやPCの履歴を消しても記憶を消すことが出来なかった……悔やむ気持ちが日を追うごとに募って、ついに今日……」
「答えにくいと思うけど、彼に代わって私が質問するよ……急に別れることになったのはどうして??店に来てくれるカップルの中では最高の組み合わせだと思っていたのに??」
「あの時の私は幸せに慣れすぎて……別れるって言えばどんな風に引き留めてくれるか、どんな愛の言葉を聞かせてくれるかってバカな事を考えたの。とんでもない過ちをしたって気付いた時は取り返しのつかない事態になっていた……」

「どうだ、彼女は後悔している。改めて何か言葉をかけるか、謝る時間を与えてやれないか??バーテンダーの私がこんな事を言うのは行きすぎだけど、二人が好きなんだよ……どうだ??」
男の前に立ち、穏やかな声をかける。
「オレも悔やむことがある。別れるって言われる前は楽しい食事を終えて何気ない話の途中だったし、食事前も週末の予定を話し合っていたんだから唐突さにびっくりして売り言葉に買い言葉のような反応をしてしまった。言葉の真意はともかく、どうして引き留めなかったんだろうと1か月考え続けていたよ」
「そうか、それじゃぁ、謝る時間をあげるんだな??」
「謝る必要ないよ……だいたいの事は分かったし、人は失敗から学ぶことが多いから今回の事も二人にとって無駄じゃない。今日寝る場所もないなら、オレん処へ来るか??」
「好いの??許してくれるの??……ありがとう」
「すべて、そのまま置いてあるからマンスリーマンションよりも暮らし易いと思うよ」

「よし、今日は帰れ。早く二人っきりになって愛を確かめろよ。男と女、理屈じゃないだろう」
立ち上がった男は右手を女の左手とつなぎ、そのままポケットに手を入れて、
「マスター、ありがとう。二人だけだと意地の張りっこをしたかも分からないけど、マスターのお陰で素直になれたよ」
「おう、以前のように飲みに来てくれよ」
男はポケットの中で固く手を握り、女は安堵の気持ちを隠すことなく寄り添って歩く。

通りでタクシーを待つ男が空を見上げると、手を伸ばしても届くはずのない高い処を飛行機が飛んでいる。
「あっ、流れ星だ。願い事をしよう」
雲一つない空で消えることのない流れ星に二人は願い事を唱え続ける。


<< おわり >>

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ちっち

Author:ちっち
オサシンのワンコは可愛い娘です

アッチイのは嫌
さむいのも嫌
雨ふりはもっと嫌・・・ワガママワンコです

夜は同じベッドで一緒に眠る娘です

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